名  前     平塚太一


生年月日     1944 年9 月4日生。 
出 生 地      横浜市中区伊勢佐木町3丁目 
がきの頃の住所  横浜中区本牧2丁目 

学  校     横浜市立大鳥小学校


1954年ごろ、貧乏な悪ガキはみんな魚釣りをした。
キャッチアンドリリースなど知る由も無い頃だから釣り上げたカレイ、アイナメなどは、すべて食卓の華となった。
悪ガキ達の釣り道具は、のべ竿に黒のプラ製リール、糸巻き部分が回転し、投げ釣りができる安物仕様。
本牧の防波堤に立ち、10 メートルも投げれば簡単に釣れた。
親父が釣り好きで、小学4年頃黒鯛の夜釣りに同行した。赤灯台へ渡船で渡り、ゴム長靴を履き、
ゆるゆると歩きながら当たりを待つのだが、親父は釣れるがさっぱり当たりもない。
突然の当たりに合わせると強烈な引き、夢中でタモに取込むと30センチの黒鯛、声も出ないくらい興奮した。

夏休みの少し前には、(今の、みなと赤十字病院に架かる橋が当時は木製だった)山下町の運河沿いに釣り餌屋の中澤があった。
親父が手漕ぎボートを借り穴子の夜釣りをした。運河のボート繋留場所から5分も漕げばポイントにつく。
アンカーは、錆びた鉄道レールを20センチ長に切り、取手を溶接した部分にロープを結んだ簡単なもの。
ボートを止め、釣り開始。ゴカイを付け底におとせば、釣れる釣れるで一匹の穴子に巻き付き2匹釣れるなど、穴子は沢山いた。
いまでも、天ぷらネタは穴子好き。

社会人になってからは釣りを離れ、夏は海、冬はスキーと可愛い女史を追いかけていた。
会社勤めも一段落し、二歳下の弟とへら鮒釣りを始めた。

1969年ごろ、相鉄線の大和駅のひとつ手前駅に瀬谷という田舎風景の処に釣り堀があり、弟と出かけた。
ベテランらしい釣り人に仕掛けや餌を教えてもらい、底釣りでなんとか釣れるようになる。
釣り堀では10~12尺ほどの短竿で、クジャク羽根で作られた浮子を見つめ当たりを待つ。
釣り堀には牢名主のような親父がいて、誘われるまま日本へら鮒釣研究会相模支部に入会する。
毎月の月例釣会に参加した。例会で成績優秀者は、佐原向地で開催される日本へら鮒釣研究会全国トーナメントに選手として参加出来る。
日本へら研は競技指向で成績順位は一日にどれほどの魚を釣るかで、成績が決まる。
上級選手は素早い手回し、繊細な当たりの取り方、餌の作り方など無駄がない動作で次々と釣り続ける。
私たち兄弟は成績は下の方だが、釣りに対する情熱は高かった。

当時の竿はグラファイトが主流だったが、粋な釣り人は竹竿を使い優雅に釣りを楽しんでいた。
釣具店ではショウケースに入れられた孤舟、源竿師、至峰、竿春、するすみ、東峰など工芸品の美しさに憧れ、竹竿製作を弟と初めてしまう。

埼玉の川口製竿組合で各種道具の調達をし、竿づくりの細かなことなど教えてもらう。製竿する道具はどんどん増え、
さながら竿師の作業場の様相に嬉しくなる。週末は寝る時間を惜しみ製竿作業に没頭した。

昭和のへら銘竿は上記の竿師たちが造りだしたが、平成の銘竿はわが兄弟から生まれると信じていた。
仕上がり寸法に合わせ、竹を選び、切り、火入れを施す、火の色が少しついた竹に中抜き後、継手部分に撚りの無い絹糸を機械で巻き終え、
漆で塗り固める作業を繰り返す。

完成した竿を5~6本ほど持ち、桜が散った頃、静岡の大井川鉄道沿いにある野守の池に出向いた。小雨が降り出し竿に雨が当たるが、
小さなへら鮒を数枚釣り上げ、昼食とした。
小雨の中で釣り続けるが、竿の調子がおかしい。右手で高く竿を上げ竿全体を眺めると変に曲がっている。
火入れの未熟さで、竿が元の竹の状態に戻ってしまった。ガッカリし横浜に帰る。
技術未熟の駄目竿について、弟と改善策会談は延々と続き、結論は火入れの鍛錬に行き着く。
この悔しさで少しは上達したが、素人竿師はやはり素人の域を超えられず、平成の銘竿は夢で終わる。

英国紳士の嗜みとしてのフライフィッシングを知り、渋谷のSANSUI で木村叔母さんから道具一式を揃え、河口湖へバス釣りに行く。
本来ならトラウトを狙うのが本道だが、初級者は簡単に釣れるバスを選んだ。
チェストハイ・ウェイダーを履き、格好だけは一人前で、湖の浅瀬に立ち込みキャストするがフライは足下に落下する。
何回も挑むがフライは10メートルも飛んではくれない。
ガッカリし、富士フィッシングエリアのFF 教室に通い、キャスト講習を受けなんとか飛ぶようになり15センチのミニバスを釣った。

気を良くし、河口湖で仲間の子ども達にFF釣り講習をする。竿はグラスの8フィートの延べ竿に道糸を竿と同長にし、
糸先端にホッパーをつけ岩陰から水面に投げつける。すると水音にバスは反応し、凄く釣れる。
この釣法を、ポチャ釣りと命名し子どもたちは夢中で楽しんだ。

その後、FF熱は高まり3月1日の芦ノ湖、4月20日の中禅寺湖の解禁が業務より優先された。
禁漁期になれば早戸川で仮想渓流釣り、東山湖にはダブルハンド・ロッドの練習場として通う。

フライ天国ニュジーランドへは、オカタイナ湖、タウポ湖、ロトルア湖へFF旅を強行した。
ニュジーランドの海釣りでは北島最北端から船中泊でスリーアイランドで、夢のようなヒラマサ入れ食い経験。
年末休暇でシアトルへスチールヘッドを釣りに。オレゴンへはレインボウ狙いで極寒の中、釣りをした。

1978年、海ではYAMAHA23フィート艇で大島元町港西側で釣友が83キロのカジキを釣る。ここからカジキ熱に犯され、
横須賀加藤ボートで33フィート・ワンオフ艇を造り、毎週末は大島海域に出撃した。
ヒットはするがランディング出来ず、カジキ釣勉強にメキシコ・カボサンルーカスに旅する。カジキの取込みやギャフ打ち方など習う。

メキシコ・マザトランではフライでカジキを狙いに行くが、陽焼けしたメキシカンクルーに、
こんな細い竿と細糸で釣れる訳ねーだろーと、欧米人独特な両手を大きく広げ首を傾げるポーズで馬鹿にされる。
フライでのカジキ釣りは惨敗で、釣らせてくれよアミーゴ。

週末の釣り習慣として、横浜港内のシーバス・ナイトフィッシング。
0時までの時間制限で23フィート艇に5名ほどが、ルアー組とフライ組に分かれて乗り込み、根岸周辺から扇島までを攻める。
夏前には赤潮が発生すると夜間走行では夜光虫が青白く輝き幻想的だが、魚は小型になってしまう。

ここ数年は、北海道積丹地方の島牧海岸などでサクラマス狙いに出掛ける。5月の連休後から泊原発を見下ろす、
岩内山の中腹にあるログハウスを1週間レンタルし、釣り仲間と共同生活を楽しむ。
当日の波、風向などをipone ipadを駆使し情報収集した後、釣行計画を決める。
5.3メートルの長竿に飛ばし浮子をつけ、餌は冷凍きびなごを遠投する。
釣れ上がるサクラマスは平均サイズ60センチ、銀色に輝く魚体は気品がある。まだ私には釣れていない。
北海道在住の、釣り師匠達は魚の居場所を肌感覚と、長年の勘の積み重ねで知っているようだ。